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でかした!ジーヴス 

P・G・ウッドハウス/著 森村たまき/訳 国書刊行会

今回は11篇収録の短編集、そのうちの2編が文藝春秋版の「ジーヴズの事件簿」と重なっている。それも冒頭に収録と来たもんだ。
…はい、焦りましたよ二度買いしちゃったかと思って(笑)。でも大丈夫、ダブっているのはお気に入りの作品だし、他の作品も結構粒揃い。特に「愛は全てを浄化す」なんて、古い映画のファンなら感涙もの。リリアン・ギッシュにグレタ・ガルボ、極めつけはクララ・ボウ!映画が娯楽の王様だった時代ならではの話ですね。「ビンゴ夫人の学友」も、うーイジワルだ!と思いながらも笑っちゃったし。あ、でも第一話のタイトルは「ジーヴスと迫りくる運命」よりも文春版の「バーティー君と白鳥の湖」のほうが良かったな。

兎にも角にも、ワンパターンの楽しさ、ジーヴスの慇懃で七面倒くさい言葉遣いの面白さ、奇人変人の大盤振る舞いと、今回も充分満足させて頂きました♪次回、ウッドハウスコレクション第6弾「サンキュー、ジーヴス」は12月刊行予定だそうです。同じ月には文藝春秋からスミス氏が出るので、正月はウッドハウス三昧かな~♪いや、年が明けるまで持たないような気もするが…(笑)。


収録作品
ジーヴスと迫りくる運命/シッピーの劣等コンプレックス/ジーヴスとクリスマス気分/ジーヴスと歌また歌/犬のマッキントッシュの事件/ちょっぴりの芸術/ジーヴスとクレメンティーナ嬢/愛はこれを浄化す/ビンゴ夫人の学友/ジョージ伯父さんの小春日和/タッピーの試練


でかした、ジーヴス!―ウッドハウス・コレクション (ウッドハウス・コレクション) でかした、ジーヴス!―ウッドハウス・コレクション (ウッドハウス・コレクション)
P.G. ウッドハウス (2006/07)
国書刊行会
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絶望 

ウラジミール・ナボコフ/著 大津栄一郎/訳 白水社

おはなさんの強烈お薦めで、遂に初ナボコフです。

倒叙ものなので粗筋は省きますが。
主人公へルマン、何と言ってもこのヒトが凄い。
自分以外、自分の目に映る世界以外のものは全く見えていないのだ。

延々と続く独白はひたすら自分のこと。
妻や親戚も、「自分の目にこう映る」という存在に過ぎず、一人の自立した人間として見ることはない。「自分は嘘つきである」と述べているが、嘘と言うより妄想か。自己を粉飾し、陶酔している様は滑稽である。周りの人間たちは、自分が見せたいと思っている姿を丸ごと信じていると思い込んでいる様も滑稽である。更に、周囲で起きていることに対して、あれほどに歴然としていながらも主人公の目には全く入っていない。もう滑稽というより気の毒になってくる…

「亡命作家に読ませたい」と願うこの手記は、常に読者を念頭において綴られている。しかし読者は彼が絶対に見ようとしない現実を知らされる。
「え、そこで信じちゃマズイんじゃないの?」
「あー、それは駄目絶対駄目!」
「おいおい、相手が腹の中で何考えてるかミエミエじゃないか!」
性格破綻者とも言える主人公だけれど、その純粋さゆえに同情が沸き、思わずこういう言葉も出てしまう。

結末は、何通りにでも解釈できるようになっている。
解説に書かれていたのも、ひとつの解釈ではありますが、個人的にはそっちは取りませんねぇ。「女はしたたか」、そっちのほうがありえると思ふ。。。

ナボコフの名で、つい享楽的本読みの自分などは引いてしまうのですが、これは文学としてだけではなく、倒叙もののミステリとしても一級品なのじゃなかろうか?可能ならば妻側の視点から書かれたこの物語を読みたい。多分、いや確実に、これに負けず劣らず面白い小説になるだろうな。
 

サーカス団長の娘 

ヨースタイン・ゴルデル/著 猪苗代英徳/訳 NHK出版

幼い頃から孤独を好み、他人を心の中で操り、自分の作り上げた世界に没頭していたペッテル。物語は常に彼の脳内に湧き上がり、留まることを知らない…『ぼくの頭の中では、物語がひっきりなしに生まれている』のだ。
大人になった彼はそのアイディアを小説家(若しくは卵)に売り、生計を立てるようになるが、「君だけに譲るんだ」という決まり文句も顧客が増えるに従って信用されなくなり、次第に今では名を成した顧客たちの反乱に脅えるようになる。

主な粗筋はこうだけれど、作品そのものにはペッテルの創作した物語が随所に挟みこまれ、それだけでも十分に読み応えがあるのだが、別居していた両親それぞれとのとのかかわりや、女性たちとの付き合いも細かく描かれている。特に「生涯ただ一人の女性」マーリアとの出会いと別れと、折に触れ語られる「サーカス団長の娘」の物語は映像的。

しかし、もっともっと手放しで誉めたいのは山々だけど、それをすると帯の文句を考えた人と同じ過ちを犯しかねないのだ。この帯、しっかりネタバレしてるんですよ~。
いえ、読んでいるうちに何となく察することは出来るのだけど、「自分で何となく察する」のと「あ、あそこに書いてあったのはこのことなんだ」と腑に落ちちゃうのは全く別物だし。ラストの胸が痛くなるような余韻は、知らずに読んで完全に感情移入して味わうほうがずっといい。

私は先に読んだ人の感想でこのことを知り、被害を逃れた(笑)のだけど、この小説で先読み出来ちゃうのだけは勿体無い!と読了してつくづく思った。それ程に物語を読むことの面白さを堪能させてくれた小説でありました。

コロラド・キッド 

スティーヴン・キング著「ダークタワー」シリーズの刊行記念イベントとして、新潮社が企画した一万人限定のプレミア・ブック「コロラド・キッド」。添え書きによると、この作品は契約上日本での刊行、販売は出来ないそうだが、プロモーションならばOKとのことで、こういう形になったそうだ。
しかし、知人で応募したひとの殆どが当選しているらしい…もしかして懸賞とは名ばかりの全員プレゼント?いえ、自分が当選すれば良いのですが(笑


メイン州のムース・ルッキット島で発見された死体。身元不明で死因も曖昧…数ヶ月後に身元が判明するものの、更に謎は深まるばかり。

この物語は、老ヴィンスの語る
「現実世界では本物の物語―つまり、はじまりがあって中間があって、結末がちゃんとあるような話は、ごくごく少ないか、まったく存在しない」
の台詞に集約されるだろう。
作り物ならば幾らでも筋の通った物語をひねり出せるが、現実世界に生きる私たちは、誰しも未解決の事件、結末がないまま打ち捨てられた出来事、そして折り合いがつけられぬまま心の中に燻る思い出などに囲まれていると思う。だからこそ、本や映画に起承転結のはっきりしたストーリーを求め、そこに矛盾点を見つけると落ち着かなくなるのかも知れない。

それを逆手に取り、こういう短くも読みでのある物語に仕上げたキングの巧さに脱帽である。島で半世紀のあいだ新聞を発行してきたふたりの老人の洒脱さ、そこに研修に来た本土生まれのステファニーの冴えた頭脳と一途さが楽しく面白く、最後まで一気に読ませるのだ。
これが一般販売だったらなぁ。コアなキングファン以外の人からも面白い感想が聞けただろうに。ちょいと残念である。


コロラド・キッド
 

ジェーン・エア 

シャーロット・ブロンテ著 大久保康雄訳 新潮文庫

中学時代、学校の図書館に「世界文学全集」全100巻が置いてあり、2年の時だったか全巻読破に挑戦した。タイトルとしては40くらいしかなかったと思うが、これで多種多様なジャンルに馴染むことが出来た。が、哀しいかな現在までしっかり覚えているのは数作程度、それも途切れ途切れの記憶しかない。

この本も、そんな1冊。導入部なんて忘却の彼方、かろうじて途中の印象的ないくつかのシーンとラストを思い出せる状態…多分、その頃にはあまり感銘を受けなかった作品だったのだろう。

しかし。
ン十年後に再読すると、これが面白いのなんの。決して短いとはいえない上下巻を、貪るように一日で読みつくしてしまった。

不幸な、そして怒りに満ちた少女時代。
18になる頃には、夢も希望も自分には無縁のものとして、一教師としてつつましく自活する以上のことを考えてないジェーン。

だが、彼女のものの考え方は非常に独特である。機知に富み、判断力に優れ、そして地味な外見からは窺い知れぬ熱い情熱を秘めている…が、性格的にはかなり偏りがあると感じた。非常にプライドが高く、冷静沈着でありながらも時に後先を考えずに行動を起こす。常に静かで控えめでありながら、チャンスがあれば自分の機知を見せびらかし、才能を誇示する。

彼女の情熱の対象、ロチェスター氏もかなりエキセントリックだ。他人を騙すことに喜びを感じるとしか思えない…占い師然り、イングラム嬢との恋愛遊戯然り。彼も、恐ろしく高いプライドを持っているのだろうな。二人とも、容易には癒すことの出来ないくらいに根深い「孤独」を抱えている。互いに魅力の無い容姿であることも、ここまで孤独感を抱くに至った一因であるだろう。だからこそ、彼らは互いを激しく求め、共鳴し合う…多分、この相手以外に自分の孤独を理解し癒すことの出来る人間はいないのだろうから。

そして、ふたりを合わせたよりももっと高慢で救いようがないくらいにエキセントリックなのが従兄セント・ジョンである。ま、彼はバルカンに例えられるような美男子ですけどね。彼が何故にこういう性格となるに至ったかが書かれていないのが結構不満。

この彼らの性格の奇矯さが、悲劇、ロマンス、ゴシック風の恐怖などで色づけされたストーリーの巧妙さにも増して、この本を素晴らしく面白いものに仕立てている。彼らの圧倒的な存在感の前では、テムプル先生やフェアファックス夫人、メアリやダイアナといった優しく思いやりに溢れた人々の、なんと色褪せて見えること…。彼らは生きている。この物語を読むものに、その息遣いを感じさせる程に生きているのだ。独特の人物設定と、その細やかな描写が、この小説をいつまでも古びず色褪せない、古典的名作としているのだと感じた。

今、この年代になって読み返してみて本当に良かった。この小説の面白さは、10代ではほんの表面しか味わえないのだろう。是非他の、中学生の頃に読んだ古典も読み返したくなった。

 

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